イングランドの一連の内紛によって、フランスとイングランドとの和平交渉は早急にまとめられつつあった。1392年のリチャード2世、シャルル6世の直接会談(アミアン会議)の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。
しかし、和平交渉はイングランドの内紛だけでなく、フランス国内の混乱によるためでもあった。幼少のシャルル6世の後見人となったアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルボン公ルイらは、国王課税を復活させて財政を私物化し、特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定したブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)は、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行った。これに対して、1388年、シャルル6世による親政が宣言され、オルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。しかし、1392年、突如シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。
国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の対立は壮絶な泥仕合となった。当初、王妃イザボー・ド・バヴィエールの愛人であったオルレアン公が財務長官、アキテーヌ総指令となり国政を握ったが、ブルゴーニュ派はフィリップの後を継いだブルゴーニュ公ジャン(無畏公)によって1405年にパリの軍事制圧を行い、1407年11月23日にはオルレアン公ルイを暗殺して政権を掌握した。しかし、ルイの跡目を継いだオルレアン公シャルルの一派は、アルマニャック伯ベルナールを頼ってジアン同盟を結び、ブルゴーニュ派と対立した。両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた
イングランド・フランス統一王国 [編集]
ヘンリー5世の攻勢 [編集]
アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は、1412年8月10日、ノルマンディーに上陸、ボルドーまでの騎行を行った。1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位する。ヘンリー5世は1414年5月23日にブルゴーニュ公と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した。
内紛によって動きのとれないフランス宮廷を尻目に、イングランド王軍は1415年8月12日にノルマンディー北岸シェフ・ド・コーに再上陸した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド王軍に対して軍を派遣した。1415年10月25日、アジャンクールの戦いでフランス王軍は勢力差4倍以上の軍勢を揃えたが、全く足並みが揃わず大敗を喫した。オルレアン公シャルルは捕らえられ、アルマニャック派は弱体化したが、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。1417年、フランス王軍を破って再上陸したイングランド王軍は、 ルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握した。
アングロ・ブルギーニョン同盟
この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした)に接近して王太子シャルルを追放した。ブルゴーニュ公ジャンは親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子シャルルがブルゴーニュ公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。
両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。
国王代理である王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、このためイングランドは着実に勢力を拡大した。
しかし、1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランド王国はヘンリー6世を王位に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、また、王太子シャルルは10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。
フランスの逆襲 [編集]
ジャンヌ・ダルクの出現
イングランド摂政ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディー三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。
これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた。このオルレアン解放が今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。
オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ、ランスに到達し、シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。ジャンヌ・ダルクは、1429年、シャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、翌年5月31日に火刑に処された。
イングランドの撤退
1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。
ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、国民からは各教会区について一定の徴兵が行われ「国民弓兵隊」が組織されている。
これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、12月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルチュール・ド・リッシュモン元帥が指揮を執るフランス軍と激突、フォルミニーの戦いにおいて、イングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方を制圧されてしまった。
シャルル7世は、イングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいと、すぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌年10月にイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年10月19日、再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。
戦争の影響 [編集]
この戦争の後、イングランドでは薔薇戦争が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化され、テューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、国内が統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。
その他 [編集]
ヘンリー6世以降のイングランド王は、百年戦争以降も「フランス王」の称号を用い続けた。これはステュアート朝まで続いており、ジェームズ1世以降はフランス、イングランド、スコットランド、アイルランドの4ヶ国の王を称した。
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